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まるで村八分のような学校の「クラス」は、もういらない

【コラム】2020年からの学校と教師③

◆改めて考える、「良いクラス」とは何か

「良いクラス」というと、先生側から見ればそれは、団結力のあるクラス、まとまりのあるクラスということになるのかもしれません。しかし、そういうクラスほど多数派を中心に集団の意志が決定されていて、少数派が息苦しかったりするものです。ある意味とても民主主義的なのですが、やはり少数の意見が大事にされないというのは良くないと思うのです。
 本当に良いクラスというのは、多数派だろうが少数派だろうが関係なく、互いの意見に対し共感し、多様性を認められるクラスではないでしょうか。そうすれば「個」が尊重された上で、違う価値観を持つ「個」とコラボレーションする喜びを味わえる。協働をするための環境ができていて、自我を無理やり隠す必要がなくなるのが、理想形だと私は考えます。

 

 先生は、過剰に他者に対して迷惑をかける生徒の行為を取り締まりつつ、クラスの生徒全員が安心して自我を出せるような環境を作り出す。それこそが求められている役目であって、決してスローガンを掲げるのが先生の役目じゃないと思うのです。
「クラス経営」「学級経営」などという言葉がありますが、そもそもこの考え方が間違いなのです。学級経営とはスローガンをかかげて、そのスローガンに沿った集団に画一化していくこと。たとえば合唱コンクールのような行事があったときに、練習を通してみんながだんだんとクラスの仲間を思いやるようになって、トゲがなくなってまとまって一つの方向に進んでいく……そのようにナビゲートすることこそ学級経営だと言う人がいるのですが、そんな誘導はいりません。あくまで生徒ひとり一人が主体的になるべきなのです。

 結局、教師たちが学級経営を通じて生徒に何をさせようとしているのかといえば、「嫌なことでも我慢しろ」ということ。集団にあわせて自我を抑えろと教えているのです。まるで努力と我慢の宗教ではないですか。
 集団における努力や我慢というのは、世の中に出てから学んだって決して遅くないと私は考えます。ましてや学校のクラスのように偶然にでき上がってしまった集団においては、必要以上のまとまりはいらないと思います。
 集団でまとまることは世の中を生きていく上で大事だと、学校でそれを学ぶべきだと言う人もいますが、その過程で失われる個人の意見はどうなるんでしょうか? 学校教育で他者との協働が求められるようになったのは、他者と協働できる人材を求める社会全体の声に応じたからと言って良いのです。それにもかかわらず、生徒に対して「クラス」という集団の中で画一化されるよう促すとは、馬鹿馬鹿しい話だと思いませんか。

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石川 一郎

いしかわ いちろう

「香里ヌヴェール学院」学院長、「アサンプション国際小・中・高等学校」教育監修顧問。「21世紀型教育機構」理事。1962年東京都出身、暁星学園 に小学校4年生から9年間学び、85年早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。暁星国際学園、ロサンゼルスインターナショナルスクールなどで教鞭を執る。前かえつ有明中・高等学校校長。「21世紀型教育」を研究、教師の研究組織「21世紀 型教育を創る会」を立ち上げ幹事を務めた。著書に『2020年の大学入試問題』(講談社現代新書)がある。


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